個性

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はじめまして

君の瞳にへのへのもへじです

この世に自分はたった一人

自分と同じ人間がいるわけがない

世界には自分と同じ顔の人間が3人はいる

そんなようなことを聞いたことがある

顔がそっくりだったとしても、それは自分とは別の人間だ

昔、羊のクローンが誕生したなんて話題があった

遺伝子が同じなら同じ存在だと認識される

その手の話はわからないけど、遺伝子が同じなら同じ人間として扱われたら

「私」はどうなる?

羊のクローン誕生はもう随分昔の話だ

私が想像できないくらい研究は進んでいるだろう

技術の発展が私たちにもたらすものは、いつだって素直に喜べることばかりじゃない

「私」という存在を消滅させるものだったら?

個というものが存在するのに、集団になるとひとまとめにされる

人間同士でもそんなことは日常に溢れてるんだから

人間が自分たちより下だと思ってる生き物の扱いはもっと酷いだろう

個の存在を認めながらそれを否定する世界

それが今の世の中だ

学校教育がそうだ

元凶と言っても過言ではない

個性を伸ばすとか言ってもそんなの大嘘だった

学校教育によって私の個性は失われた

「みんな同じ」であることを強要される

同じ物の見方

同じ考え方

中学生になると、髪型まで指定される

「自分で考えて行動するように」

「指示待ち人間になるな」

社会に出るとよく新人が言われるセリフだ

そう教育したのは学校なのに?

社会に出たら知りませんなんて無責任な教育は必要なのか?

おかしい

出る杭は打たれる

日本人の悪いところだ

そういうことをする割に、クラス内で学級委員を決めさせたりする

だいたい数人の子たちでローテーションしてやることが多かった印象だ

だって、誰もやりたがらないから

立候補制だから、やりたい人は手を挙げる

やりたい人がいればすぐ決まるので楽でいい

私が嫌だったのは、立候補しない奴が後から立候補した人の陰口を言うことだった

じゃあ、お前がやれ

そう言いたくなる

私が小学生の時、5.6年生になると委員会なるものがあった

学級委員とは別に、学校全体の奉仕活動をさせられる

その中に児童会なるものがある

とにかく何かに属さなければならなくなるのが5.6年生だった

委員会は1年間、児童会は数回メンバーの交代がある

児童会も委員会の一部なので、交代するときは抜けた人が属してた委員会へと入ることになる

児童会は中学高校でいうところの生徒会だ

故に、やりたがる人は限られている

私はやりたい委員会が1つしかなかったけど、運よく2年連続でその座を勝ち取った

本当は6年生で委員長になりたかった

私は兄貴が委員長をしたその委員会で委員長になりたかった

でもならなかった

だって、委員長を決めるのは委員会に属してからではなく

委員長になる人をクラスから数人出して、その中でどの委員会に属するのかを決めるやり方だった

やりたい委員会があるのに、勝負に負けたら私は別の委員会の委員長をやらされることになる

リスクを恐れて、私は委員長に立候補できなかった

先に委員長を決めるやり方に私は納得できなかったし、こんな決め方が正しいのか疑問に思った

仕方なく、副委員長の座に就いた

兄貴の時の委員長の委員会決めは公平にくじ引きでやることにしたってことを聞いていた

私の代では話し合いだったらしい

やりたくもない委員会の委員長になんかなりたくないと思う私は、ただのわがままなんだろうか?

メンバーの決まった委員会で委員長を決めてほしかったという私の考えはおかしいのか?

委員長の決め方さえ、学校の方針とやらに従わなくちゃいけない

そんなもんの中に、個性を伸ばす方法があるのか?

委員長にはなれなかったけど、副委員長になった私

楽しい委員会活動だった

楽しかったのに、自ら手放してしまった

児童会に入った

誰もがやりたがらない児童会

次のメンバーを決める時期がやってきた

もちろん立候補制

学級委員と委員長と現児童会を除いた中から次を決めなければならない

男女一人ずつだ

男子は比較的早く決まる

問題は女子だ

やりたくない人間の中から決めるのは何かの罰ゲームなのか?

学級委員を除くと言ったけど、児童会と交代の時期が同じだったようにも思う

記憶が曖昧だけど、委員長、児童会を除いてその時学級委員をやっていたのは

私くらいしか思い浮かばない

5年生の3学期に学級委員をやっていたのは私だ

6年生の1学期にもやっていた記憶はない

ただ、私しかいない・・・

その手の役割をやりたがる女子はほとんどいない

故にローテーションだ

学級委員が誰だったかは置いといて、とにかくやりたくない女子が名乗りを上げることは難しい

無言のままただ時間だけが過ぎていく

誰もが

「私やります」

という言葉を待っている

そもそも、所属してる委員会を抜けなくてはいけないのに

やりたいことをあきらめて嫌なことをやれだなんて酷くない?

小学生の頃からあきらめの心を育んでどうする

私たちの意志は尊重されない

なんだか調子のいいスローガン作っといて、やってることは個を排除することですか?

生徒は先生の駒なんかじゃない

言うとおりになんて動けない

だんまりな空気に耐えられなくなった私は

みんなが待ち望んでるあの言葉を言った

児童会も楽しかったから別にいいけど、自主性ってなんだろうね?

児童会は、全校生徒の前に立つことが多い

人前に出たくない人だっている

そういう勇気も必要だと思うけど、今はその時じゃないって人だっている

それを無理やりやらせるのが教育なんだろうか?

最後の児童会交代の時、いつまでも決まらない女子に先生は怒った

授業開始前に決めようとしたので、いつまでも授業を始められずにいたことに先生が痺れを切らした

「私やります」

だんまりな空気と先生の説教も面倒だったし

やりたくない委員会に入るくらいならこのまま児童会に残った方がいいと考えた

先生から女子に私が継続することに対して

文句言わずにやってくれる人に甘えるな的な言葉が贈られた

私は自分のために継続した

誰かのためじゃない

それを叱る口実に使うな

私の意志を利用するな

やりたくない人を否定するな

たまたま私が、児童会活動を嫌いじゃなかっただけの話だ

委員会を頑張りたい人だっていたはずだ

生徒のやる気を奪うな

何に興味があって、何を頑張りたいかはみんな同じじゃない

個性を尊重すると言っておいて、同調圧力で支配する

どの口が個性を伸ばせと言う?

個性を奪う教育のせいでこんな意味わからん世の中になってんだろっ

おわりっ

次回の投稿は

3月8日(水)10時です

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